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第2回ゲスト:別役実 3.11震災後の日本と、新たな文化価値の創造

新たな知と出会い、異能と交わる「Santa Cafe」。第2回ゲストの別役 実さんは3.11の大震災が露わにしたもの、それは「近代の終わりであった」という。
別役さんは135本の戯曲を生みだしてきた劇作家の立場から、今の日本に必要なものは、「肉声をコミュニケーションの基本とした地域コミュニティの復活である」という。
私たちはこの震災後の日本をどのように「復興」させていくべきなのか。その時、何を考え方の基礎に置くべきなのか。
震災後の混乱の中で、新たな文化価値創造の方途を探る。

今、演劇に何が可能か

別役:別役です。よろしくお願いします。

鈴木:オフィス・サンタ代表の鈴木です。よろしくお願いいたします。
今日は別役さんをお迎えして、「3.11震災後の日本と、新たな文化価値の創造」ということでお話をしていこうと思います。
先ほどのプロフィール紹介にもありましたように、別役さんは、これまで135本の芝居を書いておられて、ちょうど今、文学座のアトリエで、その135本目の作品、『にもかかわらずドン・キホーテ』が上演されています。
私もおととい拝見させていただいたので、まず初めにそのお話から入りたいと思います。
『にもかかわらずドン・キホーテ』は、ドン・キホーテらしき人物とサンチョ・パンサらしき人物が、世の不正を正す旅に出かけるんですが、そこでドタバタがあって、結局は元の町に戻ってくる。すると、その時ちょうど町の人たちが全部町から逃げ出すというか、出て行ってしまって、無人の町になってしまうんですね。そこに残されたドン・キホーテとサンチョ・パンサが、最後にボロボロの帽子立てを槍に見立てて、風車番がいなくなり、無人となってただひたすら回り続けているその町の風車めがけて突進をしていくというのが、ラストシーンだったわけです。
町が無人になり、番人もいなくなってただひたすら回り続けている風車に対してドン・キホーテが帽子立てを持って突っ込んでいくというラストシーンは、そこはもうストレートに原発のアナロジーだろうというふうに見てしまったんですが、その辺は別役さんご自身はどういう感じだったんでしょうか。

別役:『にもかかわらずドン・キホーテ』というのは、いま鈴木さんが言ったとおりの本なんですけども、これを書いている最中に3.11の大津波と大地震が起きまして、だいぶ書いている方針も揺らいだんです。書き始めの頃の方針は、ドン・キホーテが正気に戻って、正気に戻ったドン・キホーテが何もできないで終わってしまうという形の、いわゆるドン・キホーテの狂気に対する鎮魂劇といいますか、魂を鎮めるための芝居にしようという計画だったんですね。その段階で最後に風車へ突っ込むストーリーまで出来上がってたんです。ところが、書いている途中で3.11が起きまして、これはこのまま風車に突っ込むというラストにすると、やっぱり福島原発を想像させるんじゃないかなという恐れはあったんですね。ただ、そこで方針を変えるのも何ですから、そのまま書いたんです。原作のドン・キホーテも狂気のまま風車に突っ込むわけですね。この原作も何の意味もないんですけれども、それよりもさらに意味のない形で風車に突っ込ませることで、正気に戻ったドン・キホーテの悲哀といいますか、哀しみといいますか、虚しさというものを映し出そうと、そういう意図だったんですね。しかし、上演されると、やっぱり原発のイメージが重なり合うなぁということがあることはあったんですけれども、僕としては極めて虚しい行為として、無人の風車へ突っ込むという投げかけをしたかったということなんですよね。

鈴木:ということは、あれを原発だというふうに見てしまったのは、こっちの深読みというか、思い込みだったわけですね。

別役:そうですね。原作にありますように、ドン・キホーテは狂った形で風車に突っ込みます。それ自体なんの意味もないんですけども、それよりももっと意味のない行為というふうな書き方をしたかったんですね。

鈴木:なるほど。私は風車を原発のアナロジーというふうに直裁に見てしまったんですが、それは私一人だけではなく、多分あの舞台を観た多くの観客の方々も、やっぱり町が無人になってしまい、ただ風車だけがカラカラと音を立てて回り続けている舞台と今回の震災、とりわけ福島の原発周辺のことと重ね合わせて観た方が多かったと思うんです。ちょうど私が観に行ったときはアフタートークがあって、観客の方もいろいろな感想を述べていたんですが、そういう風に重ね合わせて観て、非常に感動したというようなお客さんの声も多かったと思います。やっぱり今、何を見ても、どんな舞台に接してもあの震災と原発のことを想起せざるを得ないというような状況の中にいると思うんです。しかし、別役さんは震災の影響を直接劇作に反映させず、あえて排除しようとされた。それは、劇作家としてのどんな姿勢なんでしょうか。

別役:あの震災は創作の過程で起きましたから、もう少し軽いテーマだったら、もしかしたらそれに対する我々の態度みたいなものを示すこともできたかもしれないと思います。ただ、ちょっと今回の出来事というのは、非常にすさまじいものでして、僕とすれば、ここ最近としては、ベルリンの壁が崩れたこと、それから9.11、それから今回の3.11と、この3つはかなりダイナミックなすごい出来事だった、歴史を変えるような出来事だったという感じがするんですね。そうなりますと、演劇の中で表現することというのは、もう限られているわけですね。そこで下手に表現しようとすると、非常に生っぽくなるとか、演劇でなくなってしまうという危険性があった。ですから、あえて我慢する必要があったんじゃないかなという感じがするんです。今回の大災害に対して、演劇が何ができるのかということが、劇作家の間でもたびたび問題になったんですけども、直接的には何もできないということが、むしろ正しいんじゃないかというふうに僕は思っています。あえて何かやろうとすれば、むしろ演劇的でなくなってしまったりする、ということがあっただろうという感じがします。ということで、創作の最中に起きましたから、書きながらだいぶ迷いましたけど、迷いながらも初期の方針を貫いた。そういう感じですね。

鈴木:それは、演劇はこれだけ大きな歴史的出来事にストレートに関わっていくべきではないという考え方があるのだと思いますが、もう1つ、あれだけの大きな出来事に対処するためにはある程度の時間が必要だというようなこともあるのではないかと思うんですが、いかがですか?

別役:それもあると思います。
ただ、演劇がやれることというのは極めて限定されている、ということがやはり大きいと思います。たとえば、もっと前からあの震災現場の中に地域住民に愛されている劇場があって、その劇場の中で常日頃ある演劇活動が行われていて、その演劇活動がある地域とのコミュニケーションの内密性みたいなものを保っているとすれば、それを梃子にしたストレートな対応というものも有効だったかもしれないとは思います。
ですから、今後演劇が何か歴史的出来事にストレートに対応していく方法を模索していくとすれば、今すぐかどうかは別にして、劇場を中心とした地域住民のコミュニケーションの内密性というものを豊かにしていくような活動を模索していくべきじゃないかという感じがするんですね。
バルト三国にエストニアという国がありますね。そこの国の人たちはエストニア語と、それからソ連に占領されたのでロシア語と、それからフィンランドに近いのでフィンランド語と、普通の住民でも3カ国語ができるらしいですけど、インテリはそれに英語とフランス語も使って、5カ国語ぐらいができるらしい。
その国がソ連からの独立運動をやろうとしたときに、劇場が中心になったというんですね。どうして劇場が中心になったかというと、劇場ではエストニア語が使われていた。エストニア語で演劇が行われていたんで、その住民の内密な言葉であるエストニア語と密接に結びついている劇場が、ソ連からの独立運動の拠点になったということがあるんですね。
そういうふうな状況が震災時にできていれば、その内密なコミュニケーションというものを使って、ある種の有効な働きができたかもしれないという感じがするんですね。
今回の被災地の状況を見ると、あそこに内密なコミュニケーションというのがあるのかというと、そうではないのではないかという感じがするんですね。たとえば、「何千人死にました」ということがある悲劇として語られているんですけれども、本当に内密なコミュニケーションというものが成立しているとすれば、「何千人死にました」「何万人死にました」というんじゃなくて、「どこそこの誰それさんが死にました」というように語られた言葉が積み重ねられてそうした表現になってゆくんだと思います。それが内密なコミュニケーションが成立しているかどうかの基準になったと思うんですがね。それが成立していれば、「誰それさんが死にました」って情報によって特定の個人の顔が浮かび、その人が亡くなったということを、そのコミュニティの中の人々が体験的に悲しむことができる。抽象的に悲しむんじゃなくて、体験的に悲しくなるというような状況ができていれば、もっと良かった。それができていない。それを作ることができていなかった。それは演劇の責任だという感じがするんですね。

鈴木:私もかつて劇団を主宰していた頃に同様の体験をしたことがあります。ある時、ポーランドでワルシャワ演劇祭というのがあって、そこからインビテーション(invitation)をもらって、じゃあちょっとポーランド演劇祭に行ってみようかということになって、ポーランド政府関係者との打合せに入ったんです。あの当時のポーランドは、『連帯』が政権を握っていたので、その『連帯』の幹部と日本で打ち合わせをした。そしたら、演劇祭の前夜祭に行われるシンポジウムにも出てくれということだったんですが、シンポジウムのテーマが「国家補助演劇の未来について」というものだったんですね。その当時、私はアングラ小劇場の世界に身を置いていたんで、そのテーマの意味がまるでわからなかった。「なんで演劇が国家の補助を受けなければならないんだ。俺たちは反体制派だよ」というようなことを話したんですよ(笑)。今思えば、実に若気の至りというか、無知そのものだったんですけどね。そしたら、その『連帯』の人が、さっき別役さんがおっしゃったように、ポーランドでは劇場のディレクターと、それから教会の神父、これが圧倒的に国民の尊敬を集めているんだっていうんです。たとえば、ワルシャワ大学の演劇科の学生が夏休みに帰省するとき、「ワルシャワ大学の演劇科の学生です」と言えば、もうほとんどみんなが車に乗せてくれるし、宿も提供してくれると。そのぐらい尊敬されているんだっていうんですね。それは何故だと聞いたら、つまり戦時下にポーランドがドイツに占領され、国語をすべて奪われたときに、ポーランド語を守り抜いたのは劇場と教会だったんだと。そういうことを聞いて、そのときは、非常に驚かされたんです。まさにカルチャーショックですね。
事実、その後、東欧諸国がソ連からの独立運動を展開したときに、デモ隊の先頭に立っていたのは劇場のディレクターか神父たちでした。

別役:あの時のニュース映像はそうでしたね。

鈴木:ええ。ですから、先ほど別役さんがおっしゃったように、ある言葉を介して地域コミュニティが成立する。そこを起点に考えなければいけないとは思うんですけれど、今回、政府が打ち出している「創造的復興」というような、みんな住宅を高台に移しちゃって、きれいな街で住みやすい街を創り出そうというような考え方は、方言を奪って全部標準語にしてしまえばいいんだ、というような強引な政策に見えてしまうところがあります。そのように、地域性みたいなものを全部取っ払っちゃったところで復興が考えられているとすれば、それは非常に危険なことなんじゃないかという気がします。

別役:大事なのは、肉声なんですね。肉声で語られなければいけない事柄というのがあって、今回のような大きな大地震であったり、大津波だったり、大災害になったりすると、公用語で語られるんですよ、すべては。ところが、実際に起こったこと、我々がドラマとして感じていることというのは、肉声で語られなければいけない。その肉声というものが、今はポーランドに行ったらポーランド語であったり、エストニアではエストニア語であったりするということだと思うんです。
肉声というのは、「何万人死にました」ということではない。さっき言ったように、「どこそこの誰ちゃんが死にましたよ」というふうな形でしか伝えられない。それは個別的な死なんです。その個別的な死を個別的な言葉で語ることができる言語性といいますか、そういうようなものが最も欠けているという感じがするんですね。ですから、我々も実際には非常にすごいことが起こったということはわかっていながら、肉声でその悲劇を語ることができていない。肉声としての体験がないんです。今後の演劇がもしあり得るとすれば、肉声でこの大災害を語るような文体を見いだしていくことしかないという感じはします。

方言と地域コミュニティ

鈴木:今、かつての演劇状況から比べると、地方での演劇活動が活発になっています。劇場もたくさんできました。それは昔のような、いわゆる「ハコモノ行政」の劇場ではなくて、たとえば北九州芸術劇場であるとか、静岡芸術劇場であるとか、そういう地域の拠点の劇場みたいなものができてきて、そこで演劇の創造が行われるようになっています。一時、別役さんも神戸のピッコロシアターで芸術監督をなさってましたが、あの頃はやっぱりそういう地域に根ざしたコミュニティの創造と、そこに根ざした演劇みたいなものを考えてらしたんですかね。

別役:すぐにその方針をはっきりさせることはできなかったんですけども、方言による演劇というのは考えてました。僕は方言ができないので、ピッコロで演劇を創るときは、僕が標準語で書いて、それを劇団員が関西弁に直して上演するという形をとっていたんですけど、あの頃、同時多発的に各地で方言の演劇創作が始まったんです。
これは演劇ではかなり異例なことでして、近代劇が始まったころは、方言を全部つぶして標準語で芝居をしましょうという時代だったんですね。僕が早稲田に入って初めて芝居したころには、それぞれの方言を全部直すというのが普通で、方言のアクセントがある人間は舞台に立たせない。全部標準語で話せるようになってから舞台に立たせるということがあったんですね。これは標準語だと普遍性があるから、多くの人に理解してもらえるからということでそうなったんですけども。それからNHKのアナウンサーなんかも全部方言を直されたんですね。そういう時代だったんです。それが、今は逆になっている。今はどっちかっていうと標準語の芝居を方言にしてやりましょう、チェーホフの『結婚申し込み』を盛岡弁に直してやりましょうというふうなことが流行り始めたんです。
これはどういうことかといいますと、普遍性の追求だけがすべてではないということです。僕の戯曲を弘前でやるというんで、僕は弘前弁に直してやってくれと頼んで、実際に弘前弁でやってもらったんです。その中に弘前弁のネイティブスピーカーが二人ぐらいいたんですが、僕の書いた芝居であるにもかかわらず、彼のしゃべったことは何を言っているかまるでわからなかった。(場内笑) 要するに、通じない。意味としては通じないんですけど、僕は聞いていて非常に快く感じたんですね。でも、そういうふうに意味としての普遍性はなくなるけども、要するに独自性といいますか、その地域でのコミュニケーションの内密性みたいなものを保証したほうがいいよ、演劇とはむしろそういうもんだよ、というふうな風潮に今はなってきている。ですから、僕の芝居をやる場合は、「あんたのところの方言でやったほうがいいよ」ということを、必ず勧めているんですけどね。
僕は方言というのは、やっぱり1つの肉声だと思うんです。意味が通じるんじゃないんです。意味が通じるんじゃなくて、言葉のフォルムとか、肌から肌へ伝達されるという感じなんです。ですから、意味としては幾分不可解なところがあったとしても、体感感覚としては必ず通じる。そういう言葉のほうが、むしろ有効になってきているんじゃないかという感じがするんですね。その手のコミュニケーションというのが、今はまったく不足しているという感じがします。
ですから、今回の震災の時も、あれだけ悲惨なものでありながら、なかなか肉声で語られてこない。公用語として、公(おおやけ)の出来事としてしか語られないという問題がある。それはやっぱり今回の災害の中で、かなり大きな部分を占める問題だろうというふうに僕は感じます。

鈴木:今、マスコミの報道もすべて公用語文体ですね。公用語文体ですべての事実を理解可能な形に編集してしまう。
多分、今回の震災で、生の東北人の姿を初めて見たという人がけっこう多いんじゃないかと思います。私自身は秋田の出身なのでなんとも思わないんですが、東北以外の人たち、特に関西から西の人たちにとってみると、東北人というのはある意味では非常に不可解な存在なのではないか。その人たちが、テレビを通してではあるけれど、東北人の生の声、東北の人間というのはこんな考え方するんだとか、こんな思いで生きてるんだっていう生の声に初めて触れた。だから今回の震災報道はその意味ですごく重要な機会だったと思うんですが、それが全部公用語文体で語られてることによって、それが逆に隠されてしまっている、薄められてしまっている。非常にもったいないというか、もっと言うと非常に罪深い報道の仕方だなというふうに思います。
それと、今、方言の演劇が話題になりましたけど、別役さんご自身のお芝居は役名がないというのが一つの特徴ですよね。すべての登場人物が男一、女二というふうになっている。以前、別役さんはそれについて、「固有の名前を使うと、そこに地域性とかいろんなものが付着してくるからだ」というふうにおっしゃっていました。その文脈から、私はそういう方言を含む地域性みたいなものを極力排除していこうとするのが別役さんの戯曲を書くときのスタイルというか思考性なのだと理解していたんです。ですから、今、方言を使った芝居という言い方をされたんで、ちょっと逆に意外な気がしたんですけど。

別役:その辺のお話をするのはかなり難しいんですけど、日本で方言が流行ったのは、諸外国に比べるとちょっと遅れてるんですよ。たとえば、イギリスのBBCが全国放送をしたときに、クイーンズ・イングリッシュで全国放送を始めるんですね。そうすると、スコットランドとかウェールズなどの各地域では、あんな言葉でしゃべるの嫌だって言って、スコットランド方言とかウェールズ方言とか、地域の方言が強くなっていったっていう現象がある。これはヨーロッパの各地でも、公用語の標準語を話すと、それに対する反発として地域の方言が強くなったっていう事実があるんですね。
日本ではNHKが全国放送を始めたとき、そういう例がなかった。唯一沖縄だけが、ウチナーグチ、つまり沖縄方言が強くなった。方言が強くなっただけじゃなくて、若い人たちが新たな方言を作って、ヤマトーグチ=標準語に対する対抗姿勢を示した。これは沖縄だけだったんですね。その時、日本の方言、地域文化というのは恐らく全滅したんだろうというふうにそこでは評価されていた。ところがここへ来て、グローバリズムというのが始まって、例えばコンピュータで日本語の英語変換とかフランス語変換とか割と簡単になっていく時期になって、初めて新劇が方言の芝居を始めた。要するに、一歩遅れてるんですね。一歩遅れてるというのは、各地の放送局が公用語=標準語で全国放送を始めたことに対する反発じゃなくて、その後のグローバリズムに対する反発として出てきたということです。
僕の場合、「男一」とか「女二」というように、役名に固有の名前を付けないのは、地域性を付着させたくないというところまでは、その通りなんです。だけれども、すべての地域性みたいなものがなくなってしまい、それが公用語によってではなく、グローバリズムによって吸い出されようとしたときに、反動として方言を使ったということだと思います。「松本さん」という人が方言を使うよりも「男1」が方言を使ったほうが、逆に地域性というものがベタッとした地域性ではなくて、抽象としての地域性みたいな形で出てくる。そこが面白いんじゃないかと思います。
今後、地域性というのは非常に重要になってくると思うんですよ。地方分権というのが政治の流れから言っても、経済効果の上から言っても、さらには文化の成り立ちから言っても、大事だと思うんです。大事だとは思うんですが、かつてのような農本主義的な地域社会というのはもう存在しない。かつて頼りにできてたそういう地域文化はむしろなくなっちゃったという感じがする。だからこそ方言によって、それを逆に確かめる必要があるときがある。逆にそういうものから、かつてあった農本主義的な地域性と同じような地域性を確かめることが必要になってくるんではないかなという感じなんですね。

鈴木:私もかつて劇団を主宰していた当時、秋田出身の劇作家として、秋田弁で戯曲を書くことに挑戦した経験があります。なんども挑戦はしてたんですが、結局成立しなかった。というのは、どうも秋田弁では演劇が成り立たないんですね。
先ほど別役さんは、自分の書いた戯曲を役者に関西弁になおしてもらうと仰っていましたけど、どうしても書き換えられないもの、翻訳不可能なものがあるように思うんですよ。つまり、「秋田の人間はそんなふうに物事を考えないよ」っていうことです。
たとえば、ハムレットの台詞、「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」っていうのを秋田弁に直す。すると、(秋田訛りで)「生ぎでればいいべが、死んだ方(ほ)いいべが、何と、それだば大変だなや」っていうことまではできるんですね。
(場内爆笑) ここまではOKなんですけど、その後の「残酷な運命の矢弾を耐え忍び」は変換できない。(発音だけ訛って)「残酷な運命の矢弾を耐え忍び」って言っても、これ秋田弁じゃないですよね。秋田の人間は言わねぇよっていうか、そんなこと考えねぇよっていうのがあるんです。だいたい秋田の人間は「残酷な運命の矢弾」なんて考え方をしない。「今年は大変だども、来年はなんとかなるべ」って考えてんですよ、やっぱり(笑)。
人間関係にしても、距離感が両極端なんです。人見知りで、きちんと人の目を見て挨拶もできないというような遠い距離のとり方をするかと思うと、いったん打ち解けるとそれ以上そばへ寄るなっていうくらい馴れ馴れしく、土足で家の中に入ってくるような近づき方をする。
ディベートが成り立つような、適正な距離感がもともとないんですね。そうすると秋田弁では、どうしても関係性としての演劇が成り立たない。
だけど隣の岩手の場合は、成り立ってるんですね。それから津軽も成り立ってる。青森に、今はお亡くなりになりましたけど、牧良介さんという方がいらっしゃって、「雪の会」っていう劇団を主宰されてたんですが、あそこは津軽弁ミュージカルを持って、東京に地方公演に来るというようなスタンスで芝居を作ってた。それから今、盛岡なんかでも方言の芝居が盛んに行われてる。昔で言えば、ふじたあさやさんって劇作家が岩手弁の芝居を書いてたり、それから九州で言えば岡部耕大さんも、九州の松浦弁で芝居を書いてた。
ところが不思議なことに、秋田弁だと成り立たない。多分岩手と秋田では県民性というか、地域コミュニティのあり方が違うんだと思います。秋田の場合は他者性を内包してないというか、コミュニティがベタッと、人間関係が異常に親密にくっつくか、でなければもう距離が離れちゃって、会話もしないぐらい離れちゃうか、多分どっちかにしかならない。その意味で言うと、岩手というのは秋田とは違った独特の文化というか、まさに宮沢賢治を生んだ風土というのがあるんだと思います。

別役:そうですね。だけど、僕は昔の方言をそのまま生かすことが重要とは思ってないんですよ。現に岩手の場合は、南部藩の方言とそれから伊達藩の方言が入り混じってるんですね。方言研究家に言わせると、これは南部藩の方言だとか、これは伊達藩の方言だって分けちゃうんですね。でも現実には、盛岡ではその両方が混合して使われてる。その二つが被さり合って使われている方が、方言を使うということの実態に近い感じがするんです。
それから僕は神戸でピッコロ劇団をやってまして、そこで関西弁にしてくれって頼むんですけども、尼崎辺りだと大阪弁も入ってます、神戸弁も京都弁も入ってますと、いろいろなものが入っている。いわゆる、阪神地域弁。非常に文化的には混雑してるんですね。それを尼崎弁として、混在したまま使うというふうにしてるわけです。
それから京都在住の劇作家である松田正隆さんは、長崎弁で戯曲を書いてます。ですけど、長崎弁というのも、方言研究家に言わせると長崎市内だけで6つに分かれてる。これは大村弁だとか、これが諫早弁だとかというふうに分かれちゃうんですけれども、松田正隆君はそれをちょっと薄めて、ある標準的な長崎弁として書いたんですね。劇作家はそこに即した新しい言葉を作るべきだという感じがする。それが従来の方言にある言葉のリズム、言葉のニュアンスみたいなものにあっていれば、それは方言として通用する。それから岡部耕大の松浦弁も、あれ作ってますよね。松浦で話されてる言葉そのままじゃない。それからもっと古いと田中千禾夫先生が「マリアの首」なんかを書いてます。これも長崎弁なんですけれども、これも田中千禾夫風になってる。劇作家がやっぱりその言葉に近い言葉を作るべきだ。作ることによってできていくだろうという感じがしますね。
それから、そういうふうに2つの文化が集まっている岩手とか津軽なんかのほうが方言を見やすいというところがありますね。作りやすいんです。だから盛岡なんかの方言芝居というのは、非常にわかりやすいということはあるんだろうと思いますね。
それから、宮沢賢治の場合はそれだけじゃなくて、岩手という土地はバタ臭い部分、洋風の部分、つまり小岩井農場のようなバタくさい文化と、それから土着の文化とが交差してるところがあって、それを宮沢賢治なんかは非常にうまく利用してて、わかりやすい文体を作り上げたということがあります。ああいうのがわかりやすいんですね。まぁ、秋田弁では芝居が作りにくいというのも、ある程度はわかりますけど。

鈴木:すみません、それじゃ、それは秋田の地域性じゃなくて、私の才能の問題でした(笑)。

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