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第2回ゲスト:別役実 3.11震災後の日本と、新たな文化価値の創造

新たな地域コミュニティの創造

鈴木:新たな地域コミュニティの創造と、そこから展望する普遍性みたいなことで、別役さんが今、考えていらっしゃることはどのようなものでしょうか?

別役:要するに、嘆き悲しみの深さと、そこから湧き出てくる「恨み辛み」の大きさみたいなものが、恐らく救いになっていくんだろうという感じはするんですよね。ですが、今は文化そのものがそれを湧き起こりにくくしている。それが、一番危ういんだという感じがします。
それともう1つは、災害地もさることながら、日本全体がやっぱりかなり危機に瀕してる。それはどういうことかというと、かつてあった中産階級といいますか、小市民ですね。小市民というのが今までの経済発展を支えてきた中核メンバーだったと思うんですが、これが崩壊しつつある。この崩壊が今回の大災害によって、足元をすくわれたという形になってると思うんですね。
この中産階級というのは、要するに日本の全国民の大多数を占めてるというふうに僕は思うんですけども、これが哲学的に崩壊し始めてるという気がする。この哲学的な崩壊を食い止めない限り、かなり危ないだろうという感じがします。この中産階級というのは、昔は「武士は食わねど高楊枝」というような下級武士の精神みたいなものから、ずっと持続して日本のある屋台骨を無意識に支えてきた勢力だという感じがするんです。
だから、これの崩壊を何らかの形で阻止しなければいけない。その方向づけみたいなものを、やっぱり文化的行為としてしなければいけないんじゃないかなという感じがします。そちらが何とかなっていくことによって、むしろ災害地も安定していくということはあるだろうと、断言してるんですけどね。

鈴木:今、哲学的な崩壊というふうにおっしゃいましたけど、そこのところをもうちょっとお話しいただけませんか。

別役:いわゆる中産階級は小市民という形で痛めつけられてたんですね。ただ、下級武士の精神から出て清貧に甘んじるとか、努力すれば成功するとか、日本人が持ってる特有のモラルというのは、大体中産階級の生活感覚から出てきたという感じがするんです。これが、そのまま高度成長を支えた。
ところが、バブル以後、あるいは金融恐慌なんかを通じて、そういうひとつの哲学そのものが崩壊して、努力すれば成功するとか、清貧に甘んじるとか、ああいうモラルを守るとかっていうのがなくなって、必ずしも有効なものではなくなってしまったというのが今日の状況だという感じがするんですね。この中産階級の自信喪失が日本全体の自信喪失になってきているという感じなんですね。だから、その中産階級の生活感覚みたいなものを立て直していく必要があるんではないかなという感じがします。
その立て直しの手立てとして、それは文化活動が支えるしか仕方がないんじゃないかなということがある。それと、これも漠然とした話なんですけども、僕はその中産階級の哲学は、文化的に、他の世界に比べても高いと思うんです。その高さは何かというと、たとえばみんな俳句を詠んだことがあるとか、自分で詠んだことはないにしてもあの俳句を知ってるとかですね。それから、和歌・俳句の教養みたいなものが、かなり国民の中に浸透してる。中産階級の人なんかにも浸透してる。
この和歌・俳句を通じて培われた自然観ですね。自然を見る目、あるいは自然を慈しむ精神みたいなものも浸透している。これは、僕なんかが公演などで地方の人と話していると、かなり有効な、知的な財産だという感じがするんですね。これが何らかの形で自分自身の生活を安定させるための手がかりになっていくんじゃないかなというようなことを漠然と思っています。
常日頃から、そういう文化をもって俳句を詠んで俳句を愛でたり、和歌を詠んで和歌を愛でたりしてる精神みたいなものが、最終的には生活感覚を立て直すための手がかりになっていくんじゃないか。それがどういう手がかりになるかというのはまだよくわからないんですけども、僕はその辺にある種の心強さを感じるんですよね。それを手立てにして何かできるんじゃないかという感じがします。

鈴木:今、おっしゃったそういう文化、それはこうした震災の時を含めて、無用なものだとか、生活していく分にはなくてもいいものだと言われてるものが、逆に言えば今ほど重要に求められてる時はないということですね。それは私もものすごく実感しています。
とにかく今は、深く嘆き悲しむことを厭わない。それはもちろん、被災した人々に向かって我々が言う話じゃないんですけども、我々自身がそういったことを感じ、そこから目をそらさずに、公用語ではない文体でそれを見つめ、語っていくことがすごく大事なんだということですね。

別役:そうですね。

鈴木:はい。ありがとうございました。いろいろとお話を伺ってきましたけれども、時間もなくなってきましたので、この辺で皆さんからのご質問やご感想、ご意見などがあれば、お聞きしたいと思います。

「恨み辛み」はどこに向かうのか?

参加者:貴重なお話、ありがとうございました。1つお伺いしたいのは、「恨み辛み」を向ける対象についてです。私が今、かなり悲観的に見ているのは、現在の日本国全員が、白と黒の二極をはっきりさせて、黒の方を攻撃することによって鬱憤を晴らしているという流れが非常に強くなってきてるような気がするんです。こういう災害の時は、人間はとかく善悪をはっきりさせたがる。そういうふうに考えることの方が楽なので、そうしたがるんだろうと思いますが、それが非常に悪い方向に働いているような気がするんです。今、菅総理に対するバッシングであるとか、政府関係者に対するバッシングが激しいんですが、それを見ていると、今の日本には果たして「恨み辛み」を内部熟成させてパワーに変えていくだけの力があるのかという気がするんですが、そのあたりいかがでしょうか?

別役:それは確かに、現実はその通りですね。マスコミの中での文体というのは公用語同士のやり取りになっちゃいますから、どうしてもあなたがおっしゃったようにあえて敵を見つけて、それを血祭りに上げることによって鬱憤を晴らすような方向に走ってますね。これは非常に悪い傾向だという感じがします。
ただ、僕は嘆き悲しむことから「恨み辛み」が出てくるというのは、もう少し人間の小さい単位の中で行われていくだろうという感じがするんですね。大きな単位で、マスコミの単位で、「千人死にました。1万人死にました」というふうな公用語の中でのドラマとしては、何となく敵がい心をあおって、自分は安全な所に身を置くというふうな文体がどうしてもできてしまう。それは、マスコミの中のどうしょうもない文体として認識し直さなければならない。
でも、僕がさっき、劇場が1つの地域社会の対人関係の中心に座るべきだというふうなことを話しましたけれども、そうだとすると、劇場を中心とした10万人単位の地域社会の中で、今言った嘆き悲しみと「恨み辛み」みたいなものが1つの文体になってくれば、力になっていくだろうという感じなんですね。
ですから、先ほど言った肉声の文体であれば、「1万人死にました」じゃなくて、「どこそこの誰それさんが死にました」という文体になるわけですから、当然それを痛みとして感じる人間も1億分の1人にはならないだろう。要するに、せいぜい10万人単位の中の1人だとすると、悲劇を体感として感じ取れる最大限の人数になるだろう。10万人単位の物語というのが、やっぱりこの被災地の中でも展開させていかなければいけない物語なんじゃないかという感じなんですね。

鈴木:それに付け加えてちょっとお話ししますと、さっき控え室でお話ししていたときに、別役さんは「政府が無能であるということはとてもいいことなんだ」とおっしゃっていたんです。つまり、無能である分だけ自分たちで考えなければいけないんだ。だから、逆に有能なトップがいて何かさっさと進められちゃうよりは、無能なほうがいいんだとおっしゃっていたんですけど、そのあたりのお話をしていただけますか。

別役:そうですね。危なかったと思いますよ。有能な、本当にリーダーシップをとれる政治家が1人いて切り盛りしたら、これはかなり危ないことになってたと思うんですね。たぶん、甚大な被害を受けましたよ。無能であるということは、もちろんかなりの問題はありますけど、でも、やっぱり右往左往してるという段階で下手なことはできない。自然の成り行きに任せるよりしょうがないというところがありましてね。それはよかったんじゃないかなと僕は思いますけどね。たとえば、田中角栄とか河野一郎のような、昔のやり手の政治家っていましたよね。あれが実力を発揮してバリバリやり過ぎたら、どうなったかわかんないですよ。

鈴木:そういう別役さんの視点がすごく面白いなと思って、お話を伺ってたんですけどね。(質問者に)こんな感じでいいでしょうか?

参加者:ありがとうございました。


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