日本語の特徴と現代口語演劇
鈴木:留学先として韓国を選んだ理由を、「日本に最も近い言語を学びたかった」というふうにおっしゃっていましたが、それはどういうことなのですか?
平田:理由はいろいろあったのですが、一番大きかったのは森有正さんの日本語論を巡る論争ですね。僕が留学する少し前、70年代に日本語ブームがありました。だいたい不況になると日本語ブームというのがくるんですけれども、オイルショックのときも日本語ブームだったんです。そこで森さんがおっしゃっていたのは、日本語というのは主語があまり使われない言語である、と。だから日本人は主体性がなくて自己主張が下手なんだということを書かれていて、それはそれでいいんですけれど、それに韓国の学者が噛み付いて、「いやいやそんなことはない。韓国もほぼ同じ言語体系で話し言葉として主語が省略されるのだけれども、韓国人は主体性がないわけではないし、東アジアの中でも最も自己主張が激しい民族だと言えるのではないか。自国のことを勝手に言うのはいいんだけれども、そのことを普遍的に言うのはおかしい」、と。これはどう見ても韓国の学者のほうに分があるなと私は思ったんです。それで、これは欧米の言語を学ぶだけでは言葉に対する感覚が狭くなってしまうなと思い、何か一つ日本語の文法に近い言語を学んだ方がいいんじゃないかなと考えて、韓国に行ったんですね。
鈴木:実際に韓国に行って韓国語を学ばれて、そのなかで見えてきた日本語との差異はどんなものだったんですか?
平田:差異というよりも日本語のあり方、日本語の特徴というものが明確になったんですね。それともう一つ、当時から演劇をやっていた私は、演劇の言語というものに大きな違和感を持っていたんですが、それが韓国語を学ぶことによって非常にクリアになったというのがありますね。
鈴木:今、出てきた演劇の言語に対する違和感ですが、それはたとえば、いわゆる赤毛もの(翻訳もの)に対する違和感ですか? それとも先行世代のアングラ演劇、まぁ、私がやっていたような芝居ですが、そうした芝居に対する違和感や反発があったのでしょうか?
平田:そうですね。今日は演劇関係の方ばっかりではないので、わかりやすく説明すると、ある演劇の教科書に「その竿を立てろ」という例文が載っていて、「その」を強調したいときは、「その」を強調しなさいと書かれてるんです。「この」でも「あの」でもなく、「その」を強調したいときは、「その」に力を入れなさい、と。「竿」を強調したいときは「竿」に力を入れなさい。「立てろ」を強調したいときは「立てろ」に力を入れなさい、と。これを繰り返すとうまくなりますよ、という教科書で、これは今も流通している教科書なんです。でも、これはちょっと言語に詳しい人なら、すぐにおかしいと思うはずなんですね。
日本語の一つの特徴として、日本語は語順が自由だということがあります。強調したいことは前に持ってきて、しかも繰り返しを厭わないのが日本語なんです。だから日本語の場合、竿を強調したいのならば、「竿! 竿! 竿! その竿、立てて!」と言えばいいし、「立てろ」を強調したいときは、「立てて! 立てて! 立てて! その、竿!」と言えばいい。これは日本人にとってはごく当たり前のことですけれども、実はこういう言語は世界では少数派なんです。たとえば、フランス語は繰り返しをすごく嫌うので、だから指示代名詞があんなに発達しているんです。だけど、日本語は繰り返しを厭わないわけだから、「立てて! 立てて! 立てて! その、竿!」って言えばいい。この場合、どこにも強弱アクセントは入っていない。高低とピッチが問題であって、日本語の話し言葉では、強弱アクセントは特殊なシチュエーションのときにしか使わないんですよ。僕が今こうしてしゃべっていても、ずっと平板に話していますよね。たとえば、ここで「(ゆっくりと)ものすご~く、(強調して)平板に、(平坦に)しゃべっていますよね」なんて話し方をしたら、変な人に思われますよね(笑)。これが、演劇と言えば「芝居がかった」というような偏見を持って受け止められている原因の一つ、市民社会と演劇が乖離している原因の一つなのだと僕は考えたんですね。この強弱アクセントが大きな原因なのではないか、と。
それでは、なぜ強弱アクセントを俳優が使わざるを得ないかと言えば、それは演技法の問題ではなく、台本の側に問題があるんじゃないか。文章解釈として言えば「竿」を強調して、「竿! 竿! 竿! その竿、立てて!」と書いたほうがいいのに、台本には「その竿を立てろ」と書いてあるから、強弱アクセントを使わざるを得ない。そのことに、当時22歳の私が気がついたのは、我ながら偉かったと思いますね(笑)。そのことは、今でも誇りに思っているんです。韓国で、自分一人で考えたことなんで。もっとも、厳密に言えば一人で考えたとは言えないかもしれない。1980年頃に、プリンストン大学の日本語学の権威である牧野誠一さんという方が、『繰り返しの文法』という本を出していらっしゃるんですが、ここに繰り返しと語順のことが書いてあるんですよ。まぁ、小難しい学術書なんですけれども、僕はその本は読んでないんです。その本はその後、90年代になって言語学者の方たちと一緒に仕事をするなかで教えてもらったんです。で、読んでみたら、本当にその通りのことが書いてあったんで、僕はびっくりした。冷静に考えてみれば、そんな大変なことを22歳のガキが考えられるわけがない。たぶん、牧野さんが書いたエッセイとかを読んでいたんじゃないかと思うんですよ。そのことと、韓国に行って一人で苦闘していた言語的孤立というものがマッチして、一人で発見したような気になっていたんだと思うんですよね。それだけだったら、それはある種の妄想のようなもので終わっていたのかもしれないけど、それが4、5年経って、演劇の実践のなかで今の演劇のスタイルに結実していったということですね。
実はこの話にはオチがあるんです。去年プリンストン大学に招かれて、特別講義とワークショップをやったんですが、そこで初めて牧野さんに会ったんですよ。で、件の本を持っていってサインをもらったんですが、そのときに牧野さんが僕の講演会をものすごく褒めてくださった。社交辞令かなと思っていたら、今年も牧野先生に招かれて講演をやることになったので、よっぽど気に入ってくださったんだと思います。その牧野先生はいま73歳くらいになってらっしゃいます。それを考えると、やっぱり人生捨てたもんじゃないなと思いますね。
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